アメリカへ
長崎への短いハネムーンが終わって、すぐに私たちはアメリカに向かって出発した。
1985年の1月5日だった。
その日は、関西に住んでいる親戚も伊丹国際空港に見送りに来てくれた。
私たちは伊丹から韓国のキンポ空港に飛び、そこからロスアンジェルスに向かった。
飛行機の窓から家族や親戚がずっと手をふって見送ってくれた光景が今でもはっきり記憶に焼きついている。
「これからは 何があっても、ジムと一緒にがんばらなければ。」という責任感と、
「次に日本や愛する家族に会えるのは いつのことだろう」という別離の悲しみで 胸がいっぱいだった。
飛行機に乗ってしばらくすると、フライトアテンダントらが、私たちに拍手をして
ウエディング・ケーキを サービスしてくれた!
当時、伊丹空港で仕事をしていた 私のいとこがの演出であることが、後でわかった。
周りの人たちにも、ケーキを振舞って 一緒にいただいた。
そして、韓国から飛び立った時も、またもや、ケーキが!!
これは、フライトアテンダントが 私たちの次に乗る飛行機に連絡をして サービスしてくれた模様。
にくい演出。
1日に2度も、見知らぬ人々から 暖かいお祝いをいただいた。
当時の世の中は、今よりも 暖かかったと言うか、人情味があったなー。
このようにして、私たちは、日本を離れ、結婚生活の1歩を踏み出した。
くしくも22年後の同じ日 2007年1月5日に、ジムは亡くなり、天国へ一人旅立って行ったのだった。
1985年の1月5日だった。
その日は、関西に住んでいる親戚も伊丹国際空港に見送りに来てくれた。
私たちは伊丹から韓国のキンポ空港に飛び、そこからロスアンジェルスに向かった。
飛行機の窓から家族や親戚がずっと手をふって見送ってくれた光景が今でもはっきり記憶に焼きついている。
「これからは 何があっても、ジムと一緒にがんばらなければ。」という責任感と、
「次に日本や愛する家族に会えるのは いつのことだろう」という別離の悲しみで 胸がいっぱいだった。
飛行機に乗ってしばらくすると、フライトアテンダントらが、私たちに拍手をして
ウエディング・ケーキを サービスしてくれた!
当時、伊丹空港で仕事をしていた 私のいとこがの演出であることが、後でわかった。
周りの人たちにも、ケーキを振舞って 一緒にいただいた。
そして、韓国から飛び立った時も、またもや、ケーキが!!
これは、フライトアテンダントが 私たちの次に乗る飛行機に連絡をして サービスしてくれた模様。
にくい演出。
1日に2度も、見知らぬ人々から 暖かいお祝いをいただいた。
当時の世の中は、今よりも 暖かかったと言うか、人情味があったなー。
このようにして、私たちは、日本を離れ、結婚生活の1歩を踏み出した。
くしくも22年後の同じ日 2007年1月5日に、ジムは亡くなり、天国へ一人旅立って行ったのだった。