チャプレンのブログ・ALSなんか大嫌い

アメリカでチャプレンとして働いています

グループ・ミーティング

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              母のガーデン

今日のグリーフ・グループ・ミーティングのテーマは「なぜ?」だった。

なぜ、私の愛する人は、苦しみを受けなければならなかったのか?

なぜ、私の愛する人は、天国に行ってしまったのか?

なぜ、愛の神が存在するのなら、愛する人を癒すことができなかったのか?

なぜ、私はこんな悲しみを受けなければならなかったのか?

なぜ、私がこんな目にあわなければならないのか?

人は、愛する人が亡くなると、自然とこのようなことを考えるらしい。
私も、同様に、「なぜ?」「どうして?」の繰り返しだった。

私たちがどんなに神を愛していても、個人的に神の声を聞くことは、そうそうできるものではない。
また、すべての質問に対して 答えが返ってくるわけでもない。

神様は、私に必要なことのみを 愛を持って示してくださるのだ。
ある時は、状況を通して、またある時は、まわりの人の言葉を通して。

もし、神様が私のすべての質問に答えてくださるとしたら、
おそらく、その答えは、複雑すぎて、私には理解できないものだろう。

もし、答えを理解することができたとすれば、私はそうとうの理解力の持ち主と言うことになり、
神の判断を、疑ったり、裁いたりする高慢な者になってしまうだろう。

とすれば、必要なことだけを理解するように 導かれていることは、私にとって幸いなことなのだと思う。

「なぜ?」と神の判断を問い続けることは、悪いことではなく、自然なこと。

でも、怒りや疑いを 引き伸ばしすぎると、自分の中にある罪や、醜さが 私をさらに苦しめることになる。

「この悲しみには、今の私にはすべてが理解できなくても、
 必ずや 神の深い恵みの計画の中で、益となることに違いない」と考えることにしている。

私の場合、特に精神的に 夫に全面的に頼りすぎていたので、
神様が、「そろそろ ひとり立ちして、成長しなさい」と、言っておられるように感じている。

聖書には、神から特に愛された人物たちが 苦しみを受けることが出てくるが、
私も絶大な神の愛を受けているのだから、この苦しみを受けて 成長させていただきたいと、
謙遜な気持ちにさせられた。