チャプレンのブログ・ALSなんか大嫌い

アメリカでチャプレンとして働いています

オレゴンから愛 5 田中健との会話

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              田中健さんとゴルフ

1985年から数年間「オレゴンから愛」の特別番組は続いた。

私たちの人生は数年の間にめまぐるしく変わっていったが、夏になると、「オレゴンから愛」の仕事をいただき、継続して働いていた。

田中健が出ていた年は、竹中直人、芳賀健二、中井貴一、市毛良枝なども出ていた年だったか・・・。
どうも記憶が定かではない。

ともかく、その年は、フジテレビの広報のスタッフ担当のドライバー&通訳となった。
広報は新聞記者やレポーターを日本から招待して、ドラマや俳優の取材をしてもらうのを手伝う。

広報は記者らによい記事を書いてもらうため、俳優の空き時間を利用して一緒にゴルフなども計画する。

上の写真は、私もゴルフをプレイさせてもらい、田中健さんと回ったときのもの。
田中健さん自ら、一緒に組みましょうと言ってくれて、カートの運転もしてくれた。

この撮影の最中は、何かと田中健さんと二人でお茶を飲んだりする機会が多く、色々な話をきかせてもらった。

当時は、小手川裕子とまだ夫婦であった田中健は、小手川裕子が人に頼りっきりで、引かれたレールの上しか進むことができないことを心配しているようだった。

その上、彼女は人気が高く、主演作も多かったことで、そのような人気は絶対に続かないので、
徐々に人気度が落ちてきた時、冒険心のない小手川さんが、どうやって芸能界で生きていくのか
非常に難しいところがある、という風なことも言っていた。

田中健は、菅原文太に初めて会ったとき、その存在感に圧倒されたらしいが、
「自分には あのような俳優としての才能や魅力がないから、芸能界では将来がむずかしい」と感じたという。
才能のない自分が、頂点に登りつめてしまえば、あとは下り坂が待っているだけ。

絶対に頂点に登らないようにと、スターにならないようにと注意し、
主演では、映画にもドラマにも出ない作戦らしい。
常に脇役、助演を選んで 仕事をしているのだと話してくれた。

なかなか、冷静に自分を観察している人だなと感じた。

それに、俳優業だけでは、将来の不安もあるので、「アンディスの笛」を練習しプロ並みになり、
つぶしの効く芸能人となれるように これからがんばりたいといっていた。

野心家である一面が見えたような気がした。

実際に、それから何年もたった後、田中健がテレビで笛を吹いているところを見て、
計画を着実に実行した彼の姿を見た。
今も音楽活動は、続けているのだろうか・・・。

田中健にしてみれば、私は海外撮影先で たまたま知り合った日本人。
どうして、こんな心の中のことを話してくれたのか、今もわからない。

私にとって、有名人といろんな話ができて 面白かったことは確かだが、
生きている次元が違いすぎるというか・・・・・。

自分の人気のことばかり気にしながら、作戦をねって生きる人生。
大変だと思うが、興味は沸かなかった。

撮影中に小手川裕子の誕生日が来て、電話でお祝いを言っていたのを見ていたが、
彼女のことを話すときも、子供のことを話すときも、気持ちがこもっていなかった。
なんとなく、大事に思っているという雰囲気がなかったのだった。

数年後、田中健が離婚したと聞いたが、それほど意外には思わなかった。