プロレスラー、ロッキー
自宅に来てくれたロッキー・モンテロとジム
私の通訳・ガイドの仕事ではよく日本人グループの移動に観光バスを使った。
ある時、到着されたばかりの日本人お客さんに「バスドライバーさんをご紹介します」と言って、
運転手に「お名前は何ですか?」と訪ねると「ロッキー・モンテロです」と答えた。
私は、何だか初めて聞いた名前ではないような気がして、「芸名みたいな名前ですね?」と聞いてみた。
すると「僕は昔プロレスラーで、よく日本へ巡業で行っていたんだよ。」と言うではないか!!
よくよく話を聞いてみると、悪役の『ドス・カラス』と組んで アントニオ猪木らと対戦していたらいしい。
ところが、彼はアメリカで交通事故にあい、頭部と首を負傷したため、ドクターストップがかかり、
プロレスの世界から消えていった。その後、様々な職を転々としながら、バスの運転手になったという。
これは、面白い!!!!
というのも、私の父は大のプロレスファン!!
私が子供の頃は、テレビが1台しかなかったので、テレビ権は父にあり、私も妹も、見たくも無いのにいつもプロレスを見る羽目になっていたのだ。
知らず知らずのうちに、プロレスラーの名前や、技の名前を覚えていた。
その日帰宅してすぐにロッキー・モンテロと仕事をしたことを父に告げると、すごく興味を示した。
ジムが、「ロッキーを家に呼んで、話を聞かせてもらおう!」と言い出した。
ジムは、いつも私たちより一歩前向きな発想で 無理に思えるようなことを言い出す。
両親は「えー!!??」とは言ったものの、ダメモトで呼んでみたら楽しいかもということになった。
さて、ロッキーとは2,3日仕事が続いていたので、父がプロレスの大ファンであることを告げ、
ランチに招待してみると、すんなり「オッケー!」と言うではないか!!
かくして、ロッキー・モンテロが我が家にやって来た!!
彼は、当時の自分のプロマイドや写真雑誌など(日本製のものも含まれていた)を持参。
中には、チャンピオンベルトをつけて、腕にちからコブを出している写真や、
アントニオ猪木と一対一で 戦っている写真もあった。
父はもう大喜び。母もテレビで見ていたので、喜んでいた。
ロッキーも嬉しそうだった。
彼は色々と当時のおもしろい話をしてくれた。
「悪役というのは、ただのエンターテインメントであって、裏ではみんな仲良し」だとか、
「アントニオ猪木はスペイン語がペラペラで、自分もスペイン語を話すため、色々と日本の観光地を案内してもらった」とか、
「アントニオ猪木は、当時白人女性と結婚していて、奥さんは男の子(アントニオ猪木の息子)と一緒にポートランドに住んでいたので、ちょくちょくお忍びでポートランドに来ていた」とか・・・。
信じられないー! という話もあって、どこまで信じていいものかと思っていたら、
「アントニオは あの後、女優と結婚したけど、それもうまくいかなかったようだね。」とか
「選挙に出て 議員になったということも 仲間のレスラーから聞いているよ。」という。
かなりアップデートされた情報もちゃんと知っていたので、彼の話は信頼できそうだ・・・。
みんなで簡単なサンドイッチを食べて、しばらく楽しい時を過ごさせてもらった。
それから、半年もたった頃だったろうか・・・・。
私がポートランド ダウンタウンのあるホテルのロビーでお客様の世話をしていると、
「やあ、りえ!」とロッキーがどこからとも無く現れて声をかけてきた。私を覚えていてくれたのだ。
「さっき、空港でお客を待っていたら、昔のプロレス仲間の『アンドレ・ザ・ジャイアント』が現れて、
『今、仕事でポートランド着いたんだけど、久しぶりだねー!』ってことになり、このホテルで会おうというから来たんだ。
リエは、『アンドレ・ザ・ジャイアント』ってプロレスラー知ってる?
もし、興味があったら、一緒に会おうよ。」と言うではないか。
知ってるも、知らないも、『アンドレ・ザ・ジャイアント』と言えば、泣く子も黙る風貌というか、
一度見たら決して忘れられない大男(身長2m20cmくらい?)で『ピレネー山脈の木こり』とかいうキャッチフレーズで呼ばれていたので、有名だ。
私は、「一緒に会う!」と言って、ロビーで一緒に待った。
ところが待てど暮らせど、『アンドレ・ザ・ジャイアント』は現れなかった。
ロッキーが、フロントで『アンドレ』のフランス語の本名で調べてもらったが、予約は入っていなかった。
結局、『アンドレ』がホテル名を間違えたのだろうとあきらめざるを得なかった。残念!
せっかく、あの『アンドレ・ザ・ジャイアント』とも友達になれるかもしれなかったのに・・・。
その後、ロッキーとは連絡もとらないまま、十数年が経ってしまった・・・。
ああ、なつかしい思い出だ。
私の通訳・ガイドの仕事ではよく日本人グループの移動に観光バスを使った。
ある時、到着されたばかりの日本人お客さんに「バスドライバーさんをご紹介します」と言って、
運転手に「お名前は何ですか?」と訪ねると「ロッキー・モンテロです」と答えた。
私は、何だか初めて聞いた名前ではないような気がして、「芸名みたいな名前ですね?」と聞いてみた。
すると「僕は昔プロレスラーで、よく日本へ巡業で行っていたんだよ。」と言うではないか!!
よくよく話を聞いてみると、悪役の『ドス・カラス』と組んで アントニオ猪木らと対戦していたらいしい。
ところが、彼はアメリカで交通事故にあい、頭部と首を負傷したため、ドクターストップがかかり、
プロレスの世界から消えていった。その後、様々な職を転々としながら、バスの運転手になったという。
これは、面白い!!!!
というのも、私の父は大のプロレスファン!!
私が子供の頃は、テレビが1台しかなかったので、テレビ権は父にあり、私も妹も、見たくも無いのにいつもプロレスを見る羽目になっていたのだ。
知らず知らずのうちに、プロレスラーの名前や、技の名前を覚えていた。
その日帰宅してすぐにロッキー・モンテロと仕事をしたことを父に告げると、すごく興味を示した。
ジムが、「ロッキーを家に呼んで、話を聞かせてもらおう!」と言い出した。
ジムは、いつも私たちより一歩前向きな発想で 無理に思えるようなことを言い出す。
両親は「えー!!??」とは言ったものの、ダメモトで呼んでみたら楽しいかもということになった。
さて、ロッキーとは2,3日仕事が続いていたので、父がプロレスの大ファンであることを告げ、
ランチに招待してみると、すんなり「オッケー!」と言うではないか!!
かくして、ロッキー・モンテロが我が家にやって来た!!
彼は、当時の自分のプロマイドや写真雑誌など(日本製のものも含まれていた)を持参。
中には、チャンピオンベルトをつけて、腕にちからコブを出している写真や、
アントニオ猪木と一対一で 戦っている写真もあった。
父はもう大喜び。母もテレビで見ていたので、喜んでいた。
ロッキーも嬉しそうだった。
彼は色々と当時のおもしろい話をしてくれた。
「悪役というのは、ただのエンターテインメントであって、裏ではみんな仲良し」だとか、
「アントニオ猪木はスペイン語がペラペラで、自分もスペイン語を話すため、色々と日本の観光地を案内してもらった」とか、
「アントニオ猪木は、当時白人女性と結婚していて、奥さんは男の子(アントニオ猪木の息子)と一緒にポートランドに住んでいたので、ちょくちょくお忍びでポートランドに来ていた」とか・・・。
信じられないー! という話もあって、どこまで信じていいものかと思っていたら、
「アントニオは あの後、女優と結婚したけど、それもうまくいかなかったようだね。」とか
「選挙に出て 議員になったということも 仲間のレスラーから聞いているよ。」という。
かなりアップデートされた情報もちゃんと知っていたので、彼の話は信頼できそうだ・・・。
みんなで簡単なサンドイッチを食べて、しばらく楽しい時を過ごさせてもらった。
それから、半年もたった頃だったろうか・・・・。
私がポートランド ダウンタウンのあるホテルのロビーでお客様の世話をしていると、
「やあ、りえ!」とロッキーがどこからとも無く現れて声をかけてきた。私を覚えていてくれたのだ。
「さっき、空港でお客を待っていたら、昔のプロレス仲間の『アンドレ・ザ・ジャイアント』が現れて、
『今、仕事でポートランド着いたんだけど、久しぶりだねー!』ってことになり、このホテルで会おうというから来たんだ。
リエは、『アンドレ・ザ・ジャイアント』ってプロレスラー知ってる?
もし、興味があったら、一緒に会おうよ。」と言うではないか。
知ってるも、知らないも、『アンドレ・ザ・ジャイアント』と言えば、泣く子も黙る風貌というか、
一度見たら決して忘れられない大男(身長2m20cmくらい?)で『ピレネー山脈の木こり』とかいうキャッチフレーズで呼ばれていたので、有名だ。
私は、「一緒に会う!」と言って、ロビーで一緒に待った。
ところが待てど暮らせど、『アンドレ・ザ・ジャイアント』は現れなかった。
ロッキーが、フロントで『アンドレ』のフランス語の本名で調べてもらったが、予約は入っていなかった。
結局、『アンドレ』がホテル名を間違えたのだろうとあきらめざるを得なかった。残念!
せっかく、あの『アンドレ・ザ・ジャイアント』とも友達になれるかもしれなかったのに・・・。
その後、ロッキーとは連絡もとらないまま、十数年が経ってしまった・・・。
ああ、なつかしい思い出だ。