チャプレンのブログ・ALSなんか大嫌い

アメリカでチャプレンとして働いています

事故

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通訳・ガイドの仕事も約5年働いた。

いつも新しい日本人に会い、いつも新しい場所に添乗し、いつも新しい内容を通訳し・・・・。

最初はチャレンジも多く、事務的な仕事よりは 自分に合っていると思っていた。

けれども継続していく内に、毎回毎回の新しい事柄が 負担となり、だんだん意欲をなくしていった。

体力的にも、時間的にも 精神的にも きつい時が多い。(ただの弱音)

私にとって、仕事はジムの学業を支える手段であり、二人の生活の糧を得るためのもの。

自分が滅ぼされていく生活は、きつかった。生きがい、やりがいを感じなかったのだ。

されど、他によい収入を約束してくれる仕事も特技も無い。

「神様、私はどうすればよいのでしょう? 道を示してください!」と祈り続けた。


そんな時だった、事故にあったのは。

仕事で日本の女流作家とテレビ会社のプロデューサーを連れて、オレゴンを案内していた。

まだメーターが6マイル(10km)ほどしか走っていない ピッカピッカのフォードの新車レンタルで、オレゴンを紹介しながらまわる。

マウント・フッドの裏側のハイウェイ35のまっすぐ続く道を 気持ちよく時速90キロで走っていた時だった。

道は、右手が崖の壁、左手が谷で下に川を見ながら走る。

助手席には、作家。後部座席にプロデューサー。楽しく会話を楽しみながらのドライブだった。

突然、左のガードレールを飛び越えて 中サイズの鹿が飛び出した!

バーン!!  

よける間もなく、真正面から鹿に激突。

とっさの出来事に何が起こったのか、把握できていなかった。

「ともかく、車を止めなければ。」直感が働き、ブレーキを思い切り踏んだ。

鹿は衝撃で横倒しに倒れ、そのままの姿勢で 車の速度と同じ速さで、スーーー!!!っと
まるでボウリングのボールが進むように 道路を流れ、右側の溝に落ちて止まった。即死だった。

なんとか車をレーンからはみ出すことなく、まっすぐに止めることができたのはいいが、
衝撃でエアーバッグが飛び出し、簡単に身動きが取れない。

とっさにドアを開けようにも、作家の方も 私の方もドアがひずんでいてあせっても開かないのだった。

そうこうあせっている内に車内に煙が入ってきた。

幸いプロデューサーがすぐに脱出できて、外から私たちのドアを開けてくれた。

車外に出てみると、前の部分はすごく凹んでしまって、色んな液体がザーッと下に流れている。

車の後ろには100メートルほどにわたって タイヤの跡が黒く残っていた。(ブレーキの証拠だ)

ちょうど昼時だと言うのに、車は1台も通らない。

私たちは一瞬の衝撃的なできごとに、途方に暮れてしまった。

私はただ「すみません。こんな事になってしまって・・・・。」と言えるだけ。

作家もプロデューサーも、「不可抗力ですよ。あなたの不注意じゃないから。

鹿の自殺行為なんだから、どうしようもないですよー」と励ましてくれる。

携帯電話も何もない時代。山の中では、誰にも何も連絡できない。

10分ほど、途方にくれていたところ、1台の小さなトラックが山から降りて来て止まってくれた。

木こりのお兄ちゃんで「いつもは夕方まで仕事をしているが、今日は歯医者の予約で通りかかった」という。

彼は、すぐに鹿を見に行き、のどの脈を確認して「即死だね。 今は禁猟期間だから、

鹿が死んでしまったことで問題になった場合、僕が警察で承認になってあげるから。」と言い、

「最寄の町まで乗せて行ってあげましょう。荷物を載せてください。」とても親切なお兄ちゃんで助かった。

哀れ、新車のフォードもその場で乗り捨てるしかない。後ろ髪を引かれる思いで車を置き去りにした。

お兄ちゃんから「しかし、まっすぐ停止できてラッキーだったね。パニックになってハンドルを下手に切っていたら

車が横転したり、谷に落ちて死んでいたかもしれないよ。」と言われ、ゾッとした・・・。


さて、トラックはとても小さいため、お兄ちゃんと私と作家が並んで座れるだけ。

プロデューサーは荷台にスーツケースと一緒に乗ってもらった。

狭くてシフトを私の股の間にはさむ様にしか座れない。

お兄ちゃんがギアシフトを変える度に、「エクスキューズ・ミー」を繰り返す、滑稽な状況。


30分ほどで最寄の田舎町についた。もともとこのレストランで昼食の予定だったのだ。

2人に食べてもらっている間に、私は警察に事故の報告と 会社に車の手配の依頼をした。

私は一応注文はしたが、さすがに食事には手を付けられなかった。

体に受けた事故の衝撃と、においとショックで、何だかわからないが精神的に食べられる状態にはない。

ところが、同じ体験をしたはずの作家たちは、パクパク食べているのだ。

「ちょうどランチの予定だったのだし、遅れてもいいから、あなたも座って食べてね」なんて。

すごい・・・。恐らく私は、事故時に運転していた者にしかわからないショックを受けていたのだろう。


アメリカには(一部の大都市は別として)基本的に流しのタクシーは走っていない。

ポートランドからタクシーを手配したため、結局その日は夕方になるまでポートランドには戻れなかった。

会社に戻ると、ボスが「いやー、大変だったねー。」労をねぎらうのもそこそこに、

「ところで死んだ鹿のサイズは どれくらいの大きさだった? 角はあった?

 禁猟のときにせっかく死んでくれたんだから、何とか持って帰って来てほしかったなー! もったいない!」

事故のこともそっちのけに、鹿のことばかり聞いてくる。

「鹿肉を食べれたのにー」とか 「剥製にできたのにー」など無神経に好きなことばかり言って。

部下や客の安全はどうでもいいのかー??


やっとのことで、家についた。

ジムにすべてのことを話したら、自分も緊張感が取れてなんだか抜け殻のようになってしまった。

ジムは あわや大惨事になっていたかもしれなかったとを知って、驚き、無事だったことを喜んで

「神様が無事にリエを帰してくれたことに感謝だよ。

 もう、2度とそんな怖いことは 起こってほしくない。」と真剣に言った。


そうこうしている内に、同じ通訳・ガイド仲間のご主人から、ジムに電話がかかってきた。

事故のことを、彼の妻から聞いたのだろう。

相手のPさんは、なぜか半分怒ったような、興奮状態の声。

「ジム、君は、自分がどれだけ幸運な男かわかっているか!!?

 時速90キロで鹿をひくというのは、大変怖いことなんだ!

 自分はこれまで鹿をひいて死んだ人の葬式に2回列席したことがあるが、

 鹿を時速90キロでひくのは、5階建てのビルから車を落としたのと同じ衝撃なんだぞ!

 鹿のサイズがもう少し大きければ、フロントガラスを突き破って、惨事につながっていたし、

 鹿のあたった角度が少しでも違えば、車がスピンして惨事になっていた可能性が高い!

 だから、今日きみのワイフが無事に帰ってきたことは、奇跡的にすごいことなんだ!

 きみは、自分がどれだけ幸運な人間か、ちゃんと知って人生を生きてくれ!!」

何度も同じようなことを怒鳴りながら言った。

Pさんは友達に起きた惨事を見てきたからこそ、じっとしておれなくなって電話をしてきたのだろう。

ジムは、なぜ自分が怒鳴られなくてはならないのか訳がわからないままに、Pさんの言葉を真剣に聞いていた。



私はこの事故で、いつかは止めたいけれど、決め手となるきっかけがなくズルズル続けていたこの仕事を、
止める潮時がきたことを感じた。

そして、夫婦して、怪我もなく無事に守られたことを神に感謝した。

あれ以来、鹿がひかれて死んでいるのを見ると フラッシュバックであの事故を思い出す。