チャプレンのブログ・ALSなんか大嫌い

アメリカでチャプレンとして働いています

突然の悲劇:叔母の死

年に1度くらいしか連絡を取り合っていない 福岡の田舎に住む叔母から

月曜日(3月29日)に手紙が届いた

 

1月に手編みのスカーフだのベストだの帽子だのを送ったので その礼状で、

きれいな文字で 元気でやっているとの叔母の近況が書かれてあった

 

叔母は、85歳でスマートフォンやインターネッとはできないし、

手紙のやり取りと言う古典的な方法でしか、連絡を取ることができない

 

『年に1度のやり取りだけでは足りないな~』 

息子はいるけれど、関西にいるため 離れていて、一人住まいなので

もう少し、連絡する頻度を増やそう

 

そう思って、さっそく火曜日の朝の空き時間に 返事を書き始めた

 

すると、日本の妹からライン連絡が入り、

叔母が交通事故にあって、被害にを受け、病院に運ばれて危篤状態だという

 

そんな・・・・

叔母にどんなことを書こうかなと 考えていた時だっただけに

そのニュースは 本当にショックだった

 

叔母を含む母の姉妹たちは4人いるが、それぞれ全国に散らばって住んでいて

普段から合流するということもなかなかできないでいた

 

こういう時には その距離の長さが大変だ

ましてや アメリカにいるのではどうしようもなく、連絡を待つしかない

 

どのようにしてかはわからないが、

連絡が 息子に 息子からいとこたちにとつながり

まずは、東京のいとこが福岡に駆け付け、叔母の息子といっしょに

叔母の状態を見守ってくれた

 

状態は悪く、2,3日の命だとの告知があったという

 

そして、とうとう金曜日に息子と姪に見守られながら亡くなってしまった

 

事故の状況はというと、

叔母が市民大学のクラスに参加するため外出し

横断歩道を渡っている際に、軽トラックにはねられたらしい

その直後は意識もはっきりしていて、自力で救急車に乗り込んだという

 

ところが 救急病院で状態が急変し、

ヘリで大学病院に搬送されて治療を受けたが そこで亡くなってしまったのだ

 

土曜日にはお通夜、日曜日には家族葬が執り行われ

私の妹が京都から、いとこが名古屋からと駆け付けて

一通りの葬儀にまつわる儀式を行った

 

なんと、あっけない最後

 

この1週間は叔母の あのことこのことなどを思い出して過ごした

 

特に思い出すのは、2001年ごろだったか、私とジムが福岡に住んでいたころ

叔母が所用で近くまで来るという連絡を受け、

うちに遊びに来てくれた時のことだ

ちょうど、クリスマスだったので、

アメリカ・スタイルのクリスマスディナーを作って食べ、

その前後、コタツに入って 楽しく会話したこと

 

叔母の人生は苦労が多く、決して楽なものではなかった

それでも 特に人の助けを得るでもなく 質素に生活していた

 

交通事故という形で 突如 命を奪われることになるなんて・・・

いとこ(叔母の息子)の気持ちを思うと 悲しい

別れの準備もできず、突如として いつもそこにいた母親がいなくなったのだから

 

母を含めて4人姉妹だったオリジナル家族は 3人になってしまった

 

葬儀に出れなかったということもあると思うが

気持ちを整理するのに 私も時間がかかりそう

 

しばらくは 叔母の思い出を思い出しながら 過ごしたいと思う

 

 

散歩中の風景より

 

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癒しの時間:観葉植物

 

今日、土曜日の休日は 一人時間

朝から車を走らせ、一度行ってみたかった隣町の苗木店を覗きに行ってみた

 

すると、なかなかホームセンターでは売っていない種類の観葉植物たちが・・・

 

 

可愛いらしい植物たちが それぞれに

「あなたの家に連れて帰って~~」と私に語り掛けてくる

私は

「そうなの~? うちに来てみる~?」ってな感じで答えて

あれこれ数種類の植物を買った

 

家に帰るとさっそく、キッチンで少し大きめの鉢に植え替える

 

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今回一番気に入ったのは 『ひもにつながったイルカ』というサボテン科の植物

 

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一つ一つの葉が 本当にイルカが泳いでるみたいで可愛い~

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植え替えられた植物は、家のあちこちの窓辺に一応落ち着いた

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キッチンの流しの上にも

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みんなちゃんと大きく育ってね~

 

 

 

 

 

元気な姿を記憶に残したい

 

Nさんは86歳の黒人男性。

アルツハイマーの末期でホスピスケアを受けられている

 

長年、教会の牧師として、神と人に仕えてこられた

奥さんも結婚して60年以上 一緒に教会で共に奉仕をされてこられたという

 

奥さんは、穏やかな話し方で

ご主人のNさんがいつ亡くなるのかわからないけれど

心の準備はできていると言われた

とても落ち着いておられる

 

ご夫婦には10人以上の子供がおられて

そのうちの一人の息子が 近くに住んでいるのに見舞いに来ない

チャプレンから 息子に来るようにと電話と入れてもらえませんかと

お願いされた

 

次の日、その息子さんに電話をしてみた

「お父さんの状態は日に日に悪化していて、

 いつ亡くなれれるか時間の問題のようです。

 あなたがお父さんに顔を見せに来ないと心配しておられるのですが、

 どんなお気持ちでおられるのですか?」

 

そう尋ねてみると、息子さんは

「父親の病気を認めたくないとか、否定しているとか

 そういうのではないんですが・・・

 僕は、父親が元気で活躍していた姿を記憶に残したいんです

 今の父親の弱っている姿ではなく。」

「だから、家族がみんなが 来い来いと言うのですが

 どうしても行く気になれません。

 でも、絶対行かないとか決めているわけでもないので

 気が変わったら、行くこともあるかも・・・・」と言われた

 

私は 彼の考えを尊重して

「そうなんですね。お父さんの元気な姿だけを記憶に残したいんですね

 お母さんや家族のお気持ちもあるので、複雑だとは思いますが

 話してくださってありがとう

 気が変わって、会いたくなったら、行ってあげてくださいね」

そう言って、電話を切った

 

数日後、Nさん宅を再び訪問させていただいたら、奥さんが

「『チャプレンに電話をよこさせたんだね』と息子に言われました

 まだ、息子は来ないんですよ

 彼が来たら、家族みんなでサポートしようと思って

 いつ来てもいいように心の準備をしているんだけど。。。

 どうしたらいいのかしら・・・」

 

「息子さんは ご自分の考えがあって来たくないとおっしゃっているので、 

 無理強いせずに、彼の気持ちを尊重してあげることじゃないでしょうか」

と言うと、

「そうですか。気持ちを尊重した方がいいですかね・・・」とポツリ

「病気の時の記憶なんて、あっという間に無くなって

 元気な時のことしか思い出に残らないと思うんだけどねえ。

 長男がガンで2年間闘病して亡くなったんですけど、

 その時の病気姿の息子なんて、記憶から消えてしまって

 とても元気な時のことしが 思い出せないのに」

 

奥さんは納得がいかない様子だった

そして

「本人が来たくないのだから、仕方がないわ

 気が変わることを期待して、待ってみます」と言われた

 

時々、このようなことが起こる

家族が病気になると、遠ざかってしまう人

ーどう接してよいのかわからない

ー悲しすぎる

ーそんな病気の姿を見たくない

理由はそれぞれだ

 

家族が重い病気にかかられて、死期が近づいたとき

あなたなら、どうしますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一度 飛びたい

84歳の白人男性、Hさんはカクシャクとした紳士という感じの方

複雑な心臓病で独居ができないほどに病気が進み、
そのうえアルツハイマーの症状も出てきたこともあって、
東海岸から シアトルの娘ケイトさんの家に身を寄せられた
そして、間もなく医者からホスピスを進められたのだった


Hさんは 良家の出身で 裕福な環境で育たれ
成績優秀で大学を卒業、そしてエンジニアリングで修士号を取得

電気系のエンジニアとしてアメリカ大手のメーカーで活躍
退職前までに かなりトップの方までのぼりつめられた

退職後は、熟年離婚され、シニア・コミュニティーで
多くの友人たちに囲まれて楽しい生活を送られていた

娘のケイトさんの住むシアトルには毎年夏になると1か月
遊びに来ておられたという

実は、Hさんは娘婿のクリスと大親友。

娘のケイトが初めて交際中のクリスを父親のHさんに紹介したとき
Hさんはこの青年を大いに気に入り、娘に
「いいかい、ケイト、
 もし、クリスが何か質問をしてきたら、(例えばプロポーズのような)
 絶対、Yesと答えるんだよ」と
忠告しておいたという

Hさんの期待通り、晴れてケイトとクリスは結婚
Hさんは大喜びで、二人を祝福された

というのも、クリスもエンジニアで思考回路が似ているのだ

娘婿のクリスは飛行機関連のエンジニアであるばかりでなく、
趣味が小型セスナ

アメリカでもっとも古いセスナ機種類の収集家でもあり、
すでに飛べなくなったセスナを買い取って修理しては
あちこちのローカル飛行場に保管しており、
それを20年ほどやっているうちに、
アメリカ中に 数十のセスナをもっておられる

訪問させていただいているご自宅の庭にも修理中のセスナが一機あるのだ

Hさんはクリスと大の仲良しになり、
クリスから飛行操縦の手ほどきを受けて、
セスナを操縦させてもらうために、毎年1か月遊びに来ておられたのだ

初めて、チャプレンとして訪問させていただいた際、
「今のあなたにとって、一番大事なことは何ですか」と質問すると
Hさんは、
「春になったら、クリスと一緒にセスナで飛ぶことです」と答えられた

「飛ぶことの魅力は何ですか? どうしてそんなに飛ぶことが大事なの?」と
質問すると、
「空に上がると、景色がきれいなのはもちろん素晴らしいんだけど、
 地上からとは全く違った視点から、世界を見ることができて、
 自分の存在がいかに小さいか、
 自分の悩みがいかに小さいか、わかるんです」

「あのエキサイトメントな気持ちを味わうと、とりこになりますよ」

「クリスがいつもアドバイスしてくれるんですが、
 『セスナは、無理に操縦しようとしないこと』
 『セスナは 飛び方を知っている
  空気がデコボコしているときには、なんとかスムーズに飛べるように
  必死で操縦しようとするんですが、
  セスナに任せて、セスナの自然な飛び方にやらせてみるとうまくいく」

私はそれを聞いていて、
「それって人生に似ていますね
 悪戦苦闘して、あらがうこともできますが、
 時としてじっと流れに任せて見守ることも必要ですよね」と
感じたこと、教えられたことを述べさせていただく

まさに、Hさんは人生の終末にさしかかっており
どうすることもできずに、じっと自然な体の弱りを
受け止めるしかないところに おられるのだ・・・



ケイトは、自信たっぷりだった父親の体が弱り、
そのうえ、アルツハイマーまで患って、自信を無くしていることを
何とかサポートしようと、
私の訪問日に合わせて 写真を整理し、スライドショーにして
大画面のテレビに映し出し、父の良き日の思い出をたどって
Hさんが 嬉しそうに写真のことを私に説明するのを
優しい目をして聞いている


成功したキャリアと業績
そのことに誇りをもって、自慢話をたくさんもっているHさん

ケイトはそんな父親に、そのままの姿でいてほしい
変わらない今まで通りの父親として とどまってほしいのだろう

そして、退職後は娘婿クリスと
5歳のいたずらっ子のような笑顔でセスナに夢中になっている父親の姿を
娘として一生懸命に支えておられる


先日、訪問が終わって玄関の外に出たら、
クリスが私を追って出てきて、
「義父を訪問してくださって、本当にありがとうございます」と
礼を言われた

春になったら セスナで飛びたいというHさんの希望は
果たしてかなうのだろうか

「お義父さんの様子は クリスからみてどうですか?
 セスナに乗れそうですか?
 死ぬ前のゴールにしておられるみたいなので、私も祈っているのですが」

そう聞くと、クリスは
「まあ、数メートルは何とか歩行器を使って歩けるようなので、
 力のある友達に協力してもらって
 何とかかなえてあげられると思います」と言われた

さて、シアトルも気温が上がってきて、春がそこまで来ているのがわかる

Hさんが空を飛ぶ日は いつになるのだろうか



Hさんが飛ぶ予定のセスナ (インターネットより)

Aeronca






 






 

さようなら、Aさん

Aさんは 89歳のフィリピン人男性

若いころフィリピンでは戦後ということもあって、
大変苦労をされ、貧困な生活をされていた

「ちゃんとした靴さえなく、ほとんど裸足だったんだよ」
と当時のことを話してくださった


19歳で、同い年の奥さんと結婚され 5人の子供を抱えながら、
長距離トラックの運転手として働いておられたが、
極貧の生活を抜け出そうと、遠い親戚を頼って アメリカへ

まずは、イチゴ摘みや皿洗いなどの仕事を掛け持ち、
最低賃金の収入 (それこそ1日1ドルとか)

それでも フィリピンよりはずっとましだったらしく
月に2度、妻と5人の子供のために仕送りを続けられた

フィリピンでは、奥さんが
「アメリカのご主人から送金があって、裕福になったね」と
近所の人から羨まれていたという

永住権を得るとすぐに、職業訓練学校で溶接工になる訓練を受け
卒業後、アラスカ、シアトルと溶接の仕事で引っ越すと同時に
フィリピンから奥さんと5人の子供を呼び寄せられた
それまでに数年かかったという

「溶接工の仕事では13ドル50セントもらえたんだよ
 たくさんフィリピンに送金できて嬉しかった~」

その後、Aさんは自動車修理店を開かれ、
人を2,3人雇って、自分のビジネスで収入を得られた

「アメリカは、Land of Opportunity
 やる気のある人には、チャンスを与えてくれる素晴らしい国だね
 ゼロから出発した僕が、今はお金の心配をせずに
 十分な老後の生活ができるのだから!」

老後は、ヨーロッパなどいろいろなところを旅行され、
リタイアメントを楽しんでおられた

ところが、2年前に運転中、道に迷われて 交通事故を起こし
腰の骨など骨折されたことで、入院

その時に、末期のガンであることが判明したのだった


ホスピスケアを受けられるようになってからも
ほとんどガンからの痛みはなく、(事故の手術のほうは痛みがあられたけど)
時々、娘さんたちに連れられて 大好きな外食に出かけられるほどだった


熱心なカトリック信者だったAさんは
パンデミックが始まってから教会に行くこともできなくなり、
2週間に一度の私の訪問を楽しみに待っていてくださった

「リア~、よく来てくれたね、ありがとう!」
「教会に行けなくなったけど、教会がここに来てくれる感じだよ」

そして、フィリピンでの思い出や、アメリカでの苦労話をしてくださる

Aさんは 人との接触や会話が大好きで
閉じ込められていることほど 苦痛はない


1年以上も 小康状態が続いて、いつまでもこのまま生きられるのではないかと
誰もが願っていた

ところが、1か月前に、帯状疱疹にかかられ顔の右半分に症状がでて、
1週間ほど臥せって 回復されたと思ったとたん、急速に弱られた

先日訪問させていただくと、辛そうなお顔で、
「死ぬのかなあ、まだ死にたくないよ」
「死ぬのが怖いんだ」と 素直な気持ちを話され
来ていた20歳ぐらいの孫マイケルが、ハラハラと涙を流していた

結局、Aさんはそのまま状態が低下し続けて
昨夜亡くなられたと、カルテを通して知った

最期の最期まで
「パンデミックが終わって、
 州知事がソーシャルディスタンスの規定を停止したら、
 23人の孫たちと一緒に、3軒のコテージを借りて
 バケーションに行くのが楽しみだよ
 もう、娘がちゃんとコテージも調べてくれているんだ」と
楽しみにされていたのに
それもかなわぬまま、天国に行かれた

1年以上も、スピリチュアルケアにあたらせていただいたAさんの死を知り、
私も本当に悲しい気持ちでいっぱいだ

今頃は、苦しみから解放されて、天の御国で神様の臨在のもと
憩われているのだろうと知ることが 私の癒しとなっている









 



今日は、詩を紹介

ひとつ


私が死んだその時

君のもとに戻ってくる努力をするよ

できるだけ速く。

そんなに時間はかからないと約束する。

私の死んでいく瞬間瞬間、

もうすでに私は君と一緒にいるのは真実だろう?

君のもとに戻ってくる すべての瞬間に。

見てごらん、

私の存在を感じてごらん。

泣きたくなったら、泣けばいい、

そして私も君と一緒に泣いていることを知っていてほしい

君の流す涙は、私たちを癒してくれるだろう

君の涙は、僕の涙なのだから

今朝私が歩いた地球は歴史を超越している。

春と冬はともに同じ瞬間に存在しているし

若葉と枯葉は本当はひとつ

私の足は不滅に触れ

私の足は君のものだ

さあ、私と一緒に歩きだそう

ひとつの次元に入ろう

そして冬に桜の花を見よう

なぜ死について語る必要などあるのだろう?

君のもとにもどるのだから

私には死ぬ必要などないのだ
 


ティック・ナット・ハン

 

(訳 Tororogirl)





それぞれの送りかた

ティームの看護士ミッシーからメールがあり、
「Jさんがチャプレンと話がしたいと言われているので連絡して」
とのことだった

Jさんは、ホスピスケア―を受け始められた際、
スピリチュアルケアは必要ありませんと
チャプレンの訪問を断られていたため
一度も訪問したことがなかった

ちなみに
アメリカのホスピスは国の医療制度によって
医師、看護士、チャプレン、ソーシャルワーカー、介護士
というチーム設定で24時間体制を取らねばならないが、
患者や家族の要望で必要のないケアとなれば、訪問を行わない
(ホスピスケアに留まるために必須なのは、看護士のケアのみで
 その他のサービスは断ることが個人の自由となっている
 そのためチャプレンのケアを断られることも多々ある)

朝の忙しい時間で、カルテを読むひまがなかったために
一日の仕事を終えて、夕方にカルテを読んで
患者さんのことを把握したうえで
明日の朝 電話をかけようと思っていた

午後、予定していた訪問が全部終わり、
さて、帰宅しようとしていたところ、
今度は同じチームのソーシャルワーカーからもメールが

「Jさんの息子さんがチャプレンと連絡をとりたい」と言っていおられる
との内容だった

一日に2度も連絡を受けるとなれば、
カルテを読むうんぬんは抜きにして、さっそく電話をしなければ

すぐに息子さんに電話をかけた
 「父の容体が急変したので、できれば訪問していただきたい」
とのことだったので、帰宅とは全く逆方向に向かって30分車を走らせた


到着すると、玄関口のところで、チーム看護士のミッシーが
訪問を終えて今から次の患者さん宅に向かうところだった

ミッシーと2,3言葉を交わしていると
玄関のすぐ隣のリビングが何やら騒がしい。。。

リビングに通されると、
Jさんが大きなリクライニングに横になり、意識はうつろ

それでも、「来てくださって・・・ありがとう・・・」と
挨拶をされた
それきり、目を開けたり閉じたりされ
起きていたいという意思と 薬の作用で眠りが襲うはざまの状態

Jさんの最期が近いとあり、
奥さん、40代の息子と娘、それぞれの伴侶と10代後半の子供たち、
それにJさんの弟夫婦が集まっておられ、
それぞれに最後の別れの時をもっておられた

このご家族がユニークに感じられたのは
みなさん、どうしてよいかわからないという感じで
(誰だって、愛する人が亡くなるときは どうしてよいか
 わからないのが当然のことだけれど)
なにかと騒がしい

私の経験からすると、こういう場面では
ほとんどのご家族が静かに患者さんの手を取って
という感じがほとんどなのだ

けれど、このご家族は違っていて
「お父さん、もう逝ってもいいんだよ。」
「もう、頑張る必要ないんだから」
「おじいちゃんが、お迎えに来ているんでしょう?」
「神様にお任せして、彼に(Jさん)にしがみつかない方がいいよ」
「私も一緒に合わせて息をするからね。」
  そして、横でラマーズ呼吸法のようにスーハ―と息をされる人
「まだ息をしているの?」
などと口々にいろんなことを語りかけられている

そうかと思えば、
「キッチンにサンドイッチたくさんあるから、みんな食べないと!」
とすすめ続ける人も

騒々しくて、死んでいられないのでは と思うほどだ

涙を流して、40代とみられる娘さんが私に尋ねられた
「お父さんに、死んだら、私の夢に出てきてねって伝えたいんだけど、
 こんな危篤状態でも、聞こえるのかしら。
 聞こえたとしても、私の夢に出てくるなんてお父さんの意思でできるの?」

私にはその答えはわからないが、
慈愛の深い神様なら、彼女の願いもかなえてくださるのだろうと思う
「お父さんにあなたの気持ちを語りかけて、
 そして神様にも祈りましょう」
(ちなみに このご家族はカトリック信者)

彼女は少し落ち着いた様子になられた

Jさんと結婚されて60年になるという奥さんは
気丈にふるまっておられ、あれこれと家族に指示をしながら、
夫につかず離れず、見守っておられた

「最期は近づいているとは言え
 その時がいつ来るのかは、誰にもわかりません
 特に緊急に何かをしなければならないということもないのですから、
 奥の部屋で、少し休まれるとか、
 少し外に出て、新鮮な空気を吸ってくるとか
 自分のケアを大事にされてることも忘れないでください」

そう言って、言葉をおかけすると
急に緊張が解けたのか、張り詰めていた気持ちが緩まれて
隣に立っていた息子にしがみついて、おいおいと泣き始められた

そしてすぐに気を取り戻して
「ちょっと外の空気を吸いに行ってみるわ
 このままだと息が詰まりそう・・・」

そういってジャケットを着たとたんに
「母さん! 父さんの呼吸が止まりそうだ! 来て!」と
声がかかった

そして、また皆がJさんを取り囲んで見守る



看取りには、正しい方法や 間違った方法はないと思う

それぞれの家族には文化があり、習慣があり、
ユニークな人間関係があるのだから

最期の時も、ありのままに見送るのが当然だ


チャプレンとして多くの最期に立ち会わせていただいてきたが
この日のことは、ユニークな看取りをされた家族として
心に残るだろうと思う

Jさんは 家族に見守られながら、翌日の午後に息を引き取られた